新潟県上越市板倉区 いたくら観光ガイド

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神として祀られた男【 中村 十作 】~生誕150年~

人頭税廃止に命をかけた中村十作(1867~1943)

中村十作 中村十作は稲増村(上越市板倉区稲増)の名主であった中村平左衛門の五男として生まれた。海軍除隊後、早稲田大学前身の東京専門学校に学び、真珠養殖を夢見て1892年(明治25)に宮古島に渡った。時に十作25歳であった。
 そこで彼が見たものは、「人頭税(にんとうぜい)」という過酷で不合理な税による貧困と差別に苦しむ農民の姿であった。そして一方で、その上に君臨する士族たちの傲慢さをまざまざと見せつけられたのであった。十作は、農業試験場の技師であった城間正安や農民総代らと人頭税廃止にむけて命をかけて取り組む決意をした。
 十作たちは士族たちの幾多の妨害を排し、1893年(明治26)に上京し、弟の十一郎や増田義一らの協力を得て、翌年に人頭税廃止の請願書を帝国会議に提出。請願は可決され、1903年(明治36)、ついに260年以上も続いた人頭税は廃止された。
 その後、十作は宮古島を中心に本業の真珠養殖事業に打ち込むが、1940年(昭和15)に戦争の激化で事業が禁止となる中、1943年(昭和18)に京都の自宅で76歳の生涯を閉じた。
 中村十作の功績は現在も宮古島で語り継がれ、「大和神」とした奉られている。宮古島の民俗芸能「アヤグ」にも十作をたたえる唄が織り込まれており、暗黒の歴史に光明を投げかけてくれた大恩人として島をあげて敬われている。
 また、地元板倉と宮古島の人々の交流も盛んに行われている。

人頭税(にんとうぜい)とは

人頭税の領収証(竹富島)

 1637年(寛永14)から1902年(明治35)まで、宮古・八重山列島に適用されていた過酷で不合理な税。この税は、所得や納税力に関係なく人頭数(人口)を基準に穀物や織物などを納めるもので、当初は役人の見立てで税を納めさせられた。やがて1710年(宝永7)には年齢を基準として税を徴収するようになった。すなわち15才~50才の男女を四つの年齢層に分け、それぞれの年齢層に応じて男は粟(八重山は米)などを、女は上布などの織物を人頭割に課した。
 一方で、役人や士族は税を免除され、さらに無償で農民を労役に使える制度もあった。税を納められない農民は牢に入れられ、拷問を受けることもあった。また、税を逃れるため、自ら手足を切り落とし、不具者になった者も多い。
 1879年(明治12)にこの地域が沖縄県となってからも税制度は存続し、農民の悲惨な生活は続いた。1893年(明治26)当時の宮古島の記録によると、その税負担は収穫高の約65%にものぼっていた。

【人頭税石】

人頭税石 この石は人頭税石(にんとうぜいせき)または賦計り石(ふばかりいし)と呼ばれ、宮古島の平良市の海岸近くに建っている。石灰石からできており、高さは1m45cmである。なぜこの石がそのような名で呼ばれているのか定かではない。
 一説によると、人頭税が導入された当初、人の背丈がこの石と同じ高さになると税がかけられたという伝説がある。また、賦計り石とも呼んでいることから、税として納める穀物を積み上げて目分量で計る基準、すなわちこの石の高さを大雑多な目安としたのではないかといわれている。また、豊作を願い、海の彼方から穀物の神を迎えるシンボル(目印)としてのものであったともいわれている。

【カイダージ(象形文字)の板札】

カイダージ(象形文字)の板札 文字が読めない農民に、人頭税の割当量を伝えるために使われた板札。
カイダージとよばれる象形文字で書かれている。ちなみにここで表記されている割当量は「粟八斗四合七勺二才」である。
 人頭税廃止後、焼却されたりしたため、国内に残っているのは3枚程度である。

中村十作の人頭税廃止運動を支えた人々

 城間 正安 (ぐすくま せいあん) 沖縄県の精糖技師として宮古島に着任。農民たちの窮状を知り、士族に反抗。人頭税廃止運動の指導者として十作とともに上京し、請願書提出など人頭税廃止に向け、大きく貢献した。
 増田 義一 (ますだ ぎいち) 十作と同じ板倉出身で、東京専門学校を出ており、創立者の大隈重信に目をかけられていた。また、新聞記者として報道関係にも知人が多かった。十作は増田の協力で人頭税の非社会性を新聞を通じて訴え、大隈ら有力な政治家の理解も得ることができた。議会での請願可決の功労者といってよい。後に「実業之日本社」を創立。衆議院副議長にもなった。
 中村 十一郎 (なかむら じゅういちろう) 十作の実弟。人頭税に苦しむ宮古島農民に心打たれ、実状を訴える請願書を作成し、兄の支援に努めた。当時は東京専門学校在学時であり、日々の生活を綴った彼の「日誌」にも状況した十作らの活動が記されている。
 笹森 儀助 (ささもり ぎすけ) 1894年(明治27)刊行の「南島探検」の著者。その中に紹介されている宮古島の人頭税による過酷な農民の生活は、政治家など多くの人々の胸を打ち、人頭税廃止運動に貢献した。

中村十作年表

西暦
(元号)
年 齢 事 項
1867年
(慶応3)
・頚城郡稲増村の名主である父平左衛門と母キクの第七子(五男)として生誕。
1873年
(明治6)
・宮島小学校高野分校(高野村)に入学。
1887年
(明治20)
20 ・徴兵により横須賀の海兵団に入隊(海防艦金剛に配属)。
1888年
(明治21)
21 ・沖縄近海の演習で台風に遭い、骨折して横須賀で入院をする。
 (療養中に入院仲間から真珠養殖の話を聞き、養殖事業への決意を固める。)
1889年
(明治22)
22 ・除隊後、東京専門学校に(現早稲田大学)に入学。
1892年
(明治25)
25 ・学校を中退し、貨物船の水夫となり、オーストラリアで白蝶貝の採取作業を見学。
・真珠養殖事業のため宮古島に上陸。宮古島農業試験場の技師である城間正安と出会い、
 人頭税廃止運動の先頭に立つ。
1893年
(明治26)
26 ・帝国議会に人頭税廃止などを盛り込んだ請願書を提出するため、廃止運動をともに行っている
 城間正安ら島民三人とともに上京。
・在京の弟、十一郎や増田義一(戸狩村出身、読売新聞記者。後に実業之日本社を創立。衆議院議員
 にもなる)らとともに請願活動についての方策を検討。政界の名士や実力者を歴訪し、協力を求める。
 新聞各社も協力し、宮古島 の惨状を報道。
1894年
(明治27)
27 ・内務大臣井上馨へ「人頭税廃止請願の建議」を提出する。
・「沖縄県宮古島宮古島々費軽減及島政改革」と題した請願を帝国議会に提出。
1895年
(明治28)
28 ・帝国議会で請願が可決され、人頭税廃止が決定。
1896年
(明治29)
29 ・宮古島に島民らの資金提供で水産組合が設立。十作が代表となり、養殖事業再開。
1903年
(明治36)
36 ・宮古、八重山に人頭税廃止の条例が施行され、人頭税が廃止される。
1908年
(明治41)
41 ・東南アジア海域で真珠養殖の調査を行う。
1910年
(明治43)
43 ・奄美大島で真珠の養殖事業を開始。
1912年
(大正元)
45 ・宮古島で設立された真珠養殖場で技術を担当。
1920年
(大正 9)
53 ・元沖縄県内務部長横内扶の娘、夏子と結婚。京都(左京区)に新居を構える。
・真珠養殖が軌道に乗り、奄美や宮古の真珠を京都で加工し、ヨーロッパなどに輸出。
1927年
(昭和 2)
60 ・富士真珠(株)を設立。半円黒真珠をスペインに輸出。
1940年
(昭和15)
73 ・戦争が激化し、真珠養殖事業が禁止となる。
1943年
(昭和18)
76 ・胃がんのため京都の自宅で死去。

関連施設概要

中村十作記念館

 中村十作の功績は現在も宮古島で語り継がれ、「大和神」として奉られています。宮古島の民俗芸能「アヤグ」にも十作をたたえる唄が織り込まれており、暗黒の歴史に光明をもたらした大恩人として島をあげて敬われています。 この業績を称え、記念館を稲増集落開発センターに設置しました。
 記念館には、中村十作に関する資料や、人頭税廃止運動を支えた人々の資料を展示しています。

住所 〒944-0101
新潟県上越市板倉区稲増109-1
開館時間 9:00~17:00
定休日 無休
問い合わせ先 板倉区総合事務所 教育・文化グループ
TEL 0255-78-2141 FAX 0255-78-3984
ホームページ http://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/itakura-ku/itakura-ss-08.html
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